日本の離島、その歴史を探る

歴史から見る対馬

歴史から見る対馬

戦争の攻防録

対馬と言う離島について話をして行くと、どうしてもあらゆる時代の背景には戦いの記録を感じさせる、決して安全な地域とは言えないということだ。隠岐や壱岐といった離島も決して例外では無いが、対馬は朝鮮半島から最も近いところに位置しており、日本の領海、ならびに国境ギリギリのところに位置しているとあって、この島の歴史は常に血塗られた歴史によって刻まれていると言ってもおかしいことは無い。安寧した生活を送れていた時代があったとするならば、人がまだ闘争心を引き起こす材料たる領土に関する問題についていざこざを起こしていなかったことくらいだ。

日本本州では人がより生活を営み、文化的に発展して行くと同時に我先に自分たちこそこの国を治めるべく存在として立ち上がる動きを見せるものもいた。ただ対馬はそうした日本内部の争いではなく、むしろ外敵からの侵略行為に備えていなければならない状況であり、現在でも対馬には自衛隊の基地が建設されているなど、防御体制を整えていなければならなかった。

時代に翻弄され、そして島の歴史と共に戦いの連続であり、戦わざるを得なかった対馬の歴史を紐解いてみよう。

先史時代において

日本神話において八番目、つまり第八島の最後に誕生した島として知られているこの対馬だが、いつ頃から人がすむ生活環境が整えられていったのかだが、現在までに確認されている調査案件をまとめてみると、旧石器時代にはまだ人の痕跡が残されていないことが確認されている。対馬に残されている最古の歴史として上げられているのは、新石器時代に属する縄文時代頃から人が生活していた名残が残されている。その後対馬が大陸からの陸路が断絶してしまったがため、島として孤立している状況になった際には先史時代に生息していたと考えられている動植物の化石などは見つかっていないという。

対馬がかつて島ではなく、陸続きの1つとして存在していたがやがて海面が上昇したためその道も断絶されてしまい、現在の対馬としての基礎が出来上がるわけだが、そこからの歴史において対馬は島として、そして一国家を形成するだけではなく戦いを繰り広げることとなる。

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常に警戒態勢にしかれていた

対馬が本格的に外部からの侵攻に対して防御力の形成をするために必要な施設が設置されていくこととなる。そのきっかけとなったのは当時の朝鮮半島と中国が繰り広げた争いである『白村江の戦い』によって、大陸からの侵攻を食い止めるためにも防人が設置されるなど対馬を通して九州の守りを強化する動きを見せていくのだった。

ただ対馬は大陸と通商するとしたらとても機転の聞くところでもあったため、本州側の朝廷としても時に軍備として、特に商業として利用するなど多くの時代で扱われ方は異なっていたが、どちらにしてもかなり言いように扱われていたと言ってもいいだろう。そうした中で最初に外部からの攻撃を受けることになった出来事は『元寇』によるものだ。対馬は最初の攻撃目標として定められてしまい、その後の歴史でも大概だが、この鎌倉時代のモンゴル帝国からの侵攻は史上最大の受難を受けることになると称されるほど、混迷する。その戦いに巻き込まれて死んでいった戦士では無い人間もいたらしく、生々しくも史実としてその記録が残されているなど残虐行為が当然のように行われていた。

この元寇によって対馬を中心とした海域では和寇と呼ばれる海賊行為が横行することとなり、これによって高麗朝を滅ぼす原因の1つを生み出してしまう。そこには対馬で家族を、共を殺されたことによる復讐から来たとも考えられている。

豊臣秀吉による朝鮮出兵

元寇騒動によって対馬の人々は本州によるこうした行いによって島の平和が乱されるようなことだけはもはや断じて許されない、そう考えていた人もいるが覇権を握ったある人物によって再び大陸との戦争に巻き込まれていくこととなる。筆者としてもそういう意味では対馬は最大の被害者だと考えられる。

その人物と歴史とは、かつて天下統一という大業を成し遂げることに成功しながらも余命幾許の甲斐なく自身の望み半ばでこの世を去った豊臣秀吉だ。現在は大河ドラマで彼の腹心として活動していた作品が放送されているが、その中でも豊臣秀吉演じる俳優さんによって、晩年における彼の狂気を物語っている。更なる国土を求めるのは武士の定め、そういうことなのかもしれないが対馬にしてみればそんな事は関係ない。だが豊臣はその時代最大の勢力だったこともあって無下にすることも出来ずに翻弄されていった。

事の発端は1592年の朝鮮出兵によって、その足がかりを形成するためにも当時対馬を統治していた島主に先導するように命じる。しかしそれに対して水面下で和平交渉を行なって、どうにかして戦争を回避することは出来ないものかと画策するが、その手も空しく戦争は幕を開けることとなる。最初期こそ上手く言っていたが、徐々に戦況が不利になって行くと共に、総大将たる秀吉が病死し、さらに侵攻していた軍は補給路を断たれた上、援軍などによって撤退を余儀なくされた。

一見すると日本が無謀な仕掛けに出たといった風に取れるが、その後における影響は対馬へと最初に向けられる。日本に対して深い怨恨を抱いた朝鮮人からの報復という名の侵略行為に曝されるのではないか、そのためにも対馬全体の防御体制を万全にしておかなければならなくなる。この戦いによって朝鮮半島を足がかりとした通商も断絶気味になってしまい、由々しき問題に発展しかけている最中に関が原の戦いが勃発、徳川が天下を統べる江戸幕府が開幕する。

そして対馬の島主は一時期は石田光成率いる西方軍に所属していたが、島主にはお咎めがない代わりに朝鮮半島との関係修復をするように命じられた。貴重な貿易路を失うわけには行かない、自らの首と民を守りたいのであれば命令に従え、といったところだろう。

2人の天下人に翻弄され、10数年といった時間で大きな時代の節目と、かつて元寇で受けた傷が再度それ相応となる事態になるのではないかと恐れられていた時期を中世から近世にかけて味わうこととなる。対馬という国は場所が場所もあって、本州から受けた被害は他の地域に負けていない程度大きなものだったと言うことだ。

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現代における対馬

しかし現代のような戦争という日々を経験したことがない人が増えている中で、昭和期における対馬はやはり戦争による被害を受け続けていた。世界大戦で日本が敗北すると対馬に軍事拠点が存在していたこともあって占領対象として定められ、敗戦後は連合国による暫定支配を本州と共に受けることとなる。

暫定支配から解放された後は、漁業が盛んとなって島の風土を盛り上げ、活気付くようにかつてない盛り上がりを見せていた時代もあったが、本州におけるあまりに早い経済成長に島から離れていく人が増えていき、現在でも過疎化が侵攻している状況にある。そういう意味では離島ならではの特徴も対馬で抱えていると言うところだ。

現在でも竹島を始めとした問題、さらに対馬は韓国に寄与すべきものであるなどとも外交問題も発生しているため、おそらく日本の地域としては領土として認められていながら、外部からの被害を受け続けている受難の地、それが対馬なのかもしれない。

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